原書を読めるなら翻訳を読む必要はない、と思われる方も多いでしょう。
でも、私は翻訳を読むのが決して嫌いではありません。
それも、あまり意訳しすぎていないような、SF小説の翻訳(原書で手に入りにくい、という事情も影響していますが)などが結構好きです。
何が良いか、と言うと、翻訳された文章を読んでいると、時々日本語の訳文を読みながらフッと「あ、原書ではこういう表現を使っていたのだろうな」と英語の表現が頭に浮かぶのです。
翻訳ではないにも関わらず、同じ効果があるのが村上春樹の文章です。
彼の小説も、日本語で書かれているにも関わらず、読みながら頭が勝手に英訳してしまうのです。それどころか、ところどころにカタカナ語での言葉遊びさえあって、「これは英訳されることを前提にしているのだろうか」と思ってしまうことがあります。
これは彼自身、翻訳も手がけている経験が影響している、と言われていますね。
とにかく、動詞が多く、各々の動詞に対する主語が明確であることが多いのです。
前回指摘したような、SとV中心の文の構造が、日本語で体現されているのです。
実は、英作文を添削するとき、日本語から直訳しているかどうかの一種のメルクマールになるのが、主語に対する動詞の数なのです。
動詞が極端に少なければ、一目で「これは日本語で推敲したんだろうな」ということが分かります。
でも、村上春樹の文章であれば、どんな初心者が訳してもナチュラルな英語になりうるでしょう。
英訳をしながら勉強したい、というのであれば、こういう文章を題材にするのが一番かもしれません。
ちなみに、先日、村上春樹が大好きだ、という日本語がぺらぺらの同僚と話をしていたところ、彼は面白いことを言いました。
「村上の小説を読んでいると、彼が本当に日本人なのかどうかを疑いたくなってしまうね。だって、音楽をはじめ、小説の中で話題になるのは日本の文化よりも西洋の文化の話ばかりではないか」
確かに、彼の小説の主人公はジャズやクラシック(ポップスでも洋楽)ばかり聴き、作る食事(主人公は男なのに、なぜかいつも料理が上手いという前提になっている)もパン食中心、飲むお酒も洋酒ばかりですね。
その同僚に対しては「私の父だって、オペラには詳しいけど、能や歌舞伎は全く分からないよ」と反論したものの、やはりこういう現象は外国人から見ると「日本人らしくない」と映ってしまうのか、と考えてしまいましたね。


