2007年05月25日

趣旨(2)

学校英語特有の問題で、能動態(active voice)の文を受動態(passive voice)の文に機械的に変換するのと同じくらい無意味に思えるのが、よく中学英語の参考書にあるらしい、第三文型の文を第四文型の文に変換せよ、という類の作業です。

(ここまで読んで「?」という状態の方は、「文型」という言葉を無視して例だけ見てください。5文型の区別などを気にしなくても以下の議論は理解できるはずです)

このような言い方をしてしまうと、中学・高校で熱心に英語を教えていらっしゃる先生方には怒られてしまうかもしれません。

でも第三文型(e.g. I gave the pen to Bill.)を使うことと、第四文型(e.g. I gave Bill the pen.)を使うことに、意味上にどんなニュアンスの違いが生じるのか、ということを全く考えずに、機械的に文を変換するだけである場合、ちょっと首を傾げたくなってしまうような文ができてしまったりします。

例えば、前述の単純な例ですが、
I gave the pen to Bill. (私はそのペンをビルにやった)
I gave Bill the pen.(私はビルにそのペンをやった)


これは、いずれも日本語の訳を見てもおかしくないですよね。ただ、前者は「ペン」というモノを強調してあり、後者は「ビル」という人を強調しているだけです。

では、以下のような場合はどうでしょう。

彼女は私に嘘を言った。


逆の日本語(i.e. 彼女は嘘を私に言った)を普通、使いますか?
なんとなく使わないような気がするのは、私だけでしょうか。
少なくとも個人的には、「嘘」という名詞を用いて「嘘を言う」という行為自体が、その嘘を言った相手を前面に押し出すことを要求している、という感覚がなんとなくあるのです。

ですから、前者に該当する
She told me a lie.
は、何の問題もありませんが、
She told a lie to me.
は、不自然さを感じるのです。それならいっそ、「嘘をつく」という動詞を用いて、
She lied to me.
にしてしまった方が良いのではないか、と。

機械的な文の変換に慣れてしまうと、このような感覚が失われてしまうような気がするのです。

少なくとも、第三文型・第四文型という紛らわしい言い方をせずに、「以下の文を、行為の対象となる人を前面に押し出すように書き換えよ」「以下の文を、行為の対象となるモノを強調するように書き換えよ」「以下の文を、なるべく代名詞を多く用いて書き換えよ」というような問題文を作った方が、よほど「使える英語」に近づけるのではないでしょうか。

以上、独り言でした。
posted by EnglishMaster at 23:51| Comment(4) | TrackBack(0) | 文法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

The Big Three-Oh!

Two days ago, my outservice students threw a surprise birthday party for me.

One of them had gotten some delicious strawberry shortcake, and they both congratulated me beautifully in English. And the female student, K, said delightedly: "Now you will be misoji too. " (I'd mentioned that I'd be turning 30 soon several weeks ago.) This was followed by the query: "What is misoji in English?"

My trusty Japanese-English dictionary lists "thirty years of age; [a person in one's] thirties" as translations, but in my opinion, they just don't cut it. They fail to convey the apprehension , excitement, and pressure that come with this number. I gave my student the phrase "the big three-oh" off the top of my head in class, and after doing some backup research on the Net, I still stand by it as the best way to convey the nuances of the word in English.

I guess the very fact that I could come up with such an apt translation in English is testament to the fact that turning 30 is a big deal in both cultures. Especially for women. There is a sudden rush to get married among my friends, and I'll be going to a record number of weddings this year.

And now that I've actually hit the big three-oh? Let's just say that it has been the most exciting birthday in years. Reaching this landmark has reminded me of how precious time is, and how I have to make the most of it.
posted by EnglishMaster at 22:37| Comment(4) | TrackBack(0) | English | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月17日

「つまらないもの」の心

日本人の心を英語で解説した "Bushido" (新渡戸稲造著)に、こんな件があります。

"In America, when you make a gift, you sing its praises to the recipient; in Japan we depreciate or slander it."


つまりアメリカでは「これは素晴らしいものだから」と何かをプレゼントするのに対し、日本では「これはつまらないものですが」と言う、ということです。

この心を、新渡戸氏は以下のように解説しています。

"[Our] logic runs: 'You are a nice person, and no gift is nice enough for you. You will not accept anything I can lay at your feet except as a token of my good will; so accept this, not for its intrinsic value, but as a token. It will be an insult to your worth to call the best gift good enough for you.'"


つまり、どんな素晴らしい贈り物であっても、あなたにふさわしいほど素晴らしいとは言えない、という相手を敬う気持ちから来ている、と説明しています。

そして、以下のように結論付けています。

"The American speaks of the material which makes the gift; the Japanese speaks of the spirit which prompts the gift."


アメリカ人は、贈り物という物質に着目し、日本人は物を贈るという心に着目している。(だが、結局は同じことを違う面から見ているに過ぎない)


この一節を初めて読んだときは、目から鱗の思いでした。
なるほど、こういう風に説明すれば良いのか、と。

しかし、最近新たな疑問が湧いてきました。

これは果たして解説しなければ理解できないものなのでしょうか。

以前アメリカ人の友人に、「ご馳走様でした」の意味を教えて欲しい、と言われたときのことです。福島に住んでいる祖母が、訪れるたびに山のようなご馳走を出しながらも、私たちの「ご馳走様でした」という言葉に対していつも「いいえ、お粗末様でした」と答える、という話をしたところ、彼は素直に「いや、素晴らしいやりとりだね」と納得していました。

そして、別なアメリカ人の友人にも夕食をご馳走してもらったときに、「君にやってもらったことを考えれば、これは本当に気持ちに過ぎないよ」と言われた記憶があります。

実はこれを考えるきっかけとなったのは、先日読み始めたマキャヴェリの『君主論』(英訳)の序文です。そこにはなんと日本人顔負けの謙遜の言葉が書かれているではないですか。
これはとても貴殿にふさわしい出来のものとは申し上げられませんが、私の精一杯の贈り物であります、どうぞお納め下さい云々、という内容が綿々と綴られているのです。

これぞ、「つまらないものですが」の心そのものではありませんか。(もっとも、こうは書いてあっても、文の節々からどうしてもマキャヴェリの傲慢さがにじみ出てしまうのですが)

謙遜の心は、特定の文化に限定されているわけではなく、誰でもその価値を認めうるものなのではないか、と考えさせられたのです。

しかしながらその一方で、最近の日本では、自分が人にあげるものを「つまらないもの」などと言うべきではない、という主張さえ目にすることがあります。
そのような主張している人たちは、果たして「つまらないものですが」と言うときの本当の心というものを理解できているのでしょうか。

新渡戸氏が『武士道』を著した100年前には当たり前だった心が、今の日本では失われつつあるのでは、と考えると、ちょっと悲しい気持ちになってしまいます。
posted by EnglishMaster at 02:12| Comment(1) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする